プロフィール仕事をするにあたって心掛けていること(ポリシー):検査に合格する仕事ではなく、与えられた環境でベストの仕事をする。
座右の銘:耐雪梅花麗 悪、小なるをもってこれをなすなかれ。善、小なるをもってこれをなさざるなかれ
好きな音楽家:ボブマーリー、レッドツェッペリン、そして吉田拓郎
好きな作家:司馬遼太郎
好きな食べもの:イタリアン、お好み焼き、いろいろ
趣味:海釣り(最近時間がない)、ゴルフ(100前後で進歩なし)、英会話(毎朝ラジオ英会話)
2012年、長崎県の軍艦島に初上陸しました。建築学会とコンクリート工学会(JCI)の軍艦島に現存する日本最古のRC構造物保存検討チームの一員としての参加でした。その年、広島市でJCI年次大会が国際会議場で開催され、その会場で(一社)コンクリートメンテナンス協会として亜硝酸リチウムの圧入技術の展示をしていました。のちに芝浦工業大学の教授になる建築研究所の濱崎先生がふらっと私たちのブースを訪問して、私の亜硝酸リチウムの防錆技術の説明を聞いた後、「亜硝酸リチウム圧入で軍艦島建築群保存のための試験体を作成して現地に暴露しないか?」と言われ、二つ返事で了解し上陸しました。ちなみに軍艦島への上陸は簡単ではありません。コンクリート片が上空からいつ落ちてくるか分かりませんし、歩いている床がいつ抜け落ちるか分からない場所です。長崎市に「すべて自己責任」という誓約書をまず提出して上陸します。
軍艦島のRC高層住宅の歴史は大正時代に建築された7階建ての30号棟に始まり昭和そして戦中戦後に多くのRC高層住宅が建築されました。狭い島の中に5000人を超える炭鉱に関わる人が住んで日本一の人口密度を記録しています。
軍艦島の鉄筋コンクリートは過酷な塩害環境に曝されています。塩分量は腐食発生限界をはるかに超えて、鉄筋は腐食し、激しく腐食膨張した錆鉄筋がひび割れを誘発し、断面欠損を起こし、かぶりコンクリートは欠落して、構造物全体で赤茶色に腐食膨張した鉄筋が剥き出しになっている光景をいたるところで見ることができます。3年前から10年間の暴露試験も新たに始まり、それにも参加しているのですが、実験開始から10年後となると、私は70歳を過ぎていることになります。調査の邪魔にならない年寄りになるように気を付けなければいけません。
私にとって、軍艦島に行く理由がもう一つあります。私は昭和39年(10歳)まで福岡県の田川市に住んでいました。筑豊炭田と呼ばれる町で生まれ育ちました。小さい頃の記憶ですが、炭鉱繁栄の頃、田川のアーケード商店街は連日人であふれ活気に満ち、花火大会や洗炭でぜんざいのように真っ黒になった英彦山川を渡る山車の祭り「神幸祭」は多くの人でにぎわっていました。今思うと日本のエネルギー政策で人とお金が集まった地域だったのでしょう。私は活気にあふれた炭鉱の時期から多くの人が去り寂しくなった閉山までの筑豊を経験しました。全身石炭で真っ黒になって仕事から戻ってくる男たちの家族が住む長屋に住んでいました。お風呂も便所も共同で、近所に住むもの皆家族と同じ感覚でした。今は博物館が出来てそのころを再現した展示がされています。
さて、軍艦島は昭和49年に閉山になり島民はすべて去り無人島になりました。世界遺産に指定された炭鉱遺跡は閉山後かなりの部分が撤去もしくは解体されて建造物はあまり残っていません。現在実施されている軍艦島観光はこの産業遺跡を手摺越しに遠くから眺めるので当時の生活を感じることはできません。しかし高層住宅群は手がつくことなく、風雨で荒れるまま、約45年前のまま残されています。建物の中を瓦礫を避けながら歩くと、昭和49年の閉山で歴史が止まった炭鉱の生活を感じ取れます。朽ちた窓枠・手摺・畳・持ち出せなかったのか錆びた洗濯機、ミシンやテレビ、台所の食器や鍋、そして病院の朽ちたベッド、小中学校の隅に片づけられた木製の机、諸々。今の筑豊では感じられない日本のエネルギーを支えた炭鉱での生活を感じ取れる国内唯一の場所が軍艦島です。
現在64歳、残された人生のライフワークとして、日本の産業を支え、忘れ去られようとしている炭鉱の歴史、そしてその炭鉱夫とその家族の生活が感じられる炭鉱生活遺産の軍艦島を保存する活動に微力ですが、貢献していきたいと思っています。
※写真は長崎市の特別な許可を得て掲載しています。